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第三回海洋情報シンポジウム講演要旨


伊勢湾の歴史と文化

福岡猛志(日本福祉大学副学長・教授)

 知多半島の半田市に住み、美浜町に職場をもつ私にとって、伊勢湾の論じられ方がしばしば大都市である名古屋・四日市あたりから見たものに片寄っているように思えてならないことがある。そこに至る「通勤圏」を考えるような視点からすれば、知多半島は南に行くにしたがって、「田舎」となる。津市・松阪市・伊勢市などにしても、大都市というほどのものでもない。辺境とまでは言わないにしても、あるいは観光地としては意識されても、名四地帯から見れば遠方と思われているふしがある。また、渥美半島・知多半島・伊勢志摩地方の相互の行き来も、豊橋・名古屋を経由するとなれば、簡単ではない。伊良湖岬−神島−伊勢の自動車道に、知多の先端からのそれを繋ごうという発想も、極めて自然に生まれて来ようというものである。
 近年の「環伊勢湾」という構想においても、その点はなかなか難しい。もちろん、大都市には大都市の役割があり、それを無視したベッタリ一律の地域像などというものはあり得ないのだが、たとえば、中部国際新空港の論議にしても、財政問題、アクセス問題、漁業補償問題などに比べて、知多半島・三重県・伊勢湾の海全体・それらのつながりはどうなるのかという問題は、あまり聞こえてこない。
 私は、ここで二つの問題について述べてみたい。その一つは、歴史の中では、「環伊勢湾」というのは、スローガンでも目標でもなく、具体的な伊勢湾岸の生活の在り方そのものであったということであり、もう一つは、歴史における海上交通の重要性と、太平洋沿岸の交通・交流の拠点としての伊勢湾の意味の再評価ということである。そのどちらも、「名古屋から見た目」では分からない。
 第2の問題から、始めよう。「椰子の実」の歌を知らない若者達が増えている。皆さんはどうだろうか。島崎藤村の詩は、実は若き日の柳田国男の体験に基づくもので、柳田の体験は、晩年の名作『海上の道』に結実している。柳田が椰子の実を見つけたのは、伊良湖岬であった。そこから神島を経て伊勢・志摩に至るラインの内側が、三河湾・知多湾を含む広義の伊勢の海である。伊良湖水道のもつ意味は、海図を見せていただいて納得したが、そこを通って東に海路を取れば遠州灘、西に向かえば大王崎を経て熊野灘である。この二つの灘は、難所として知られているが、近年の研究により、少なくとも中世以来それを乗り越えて、東西に行き来する航路が栄えていたことが明らかにされている。伊勢湾は「名古屋はどうあれ」、瀬戸内と関東を結ぶ大動脈の心臓弁ともいうべき位置を占めていたとも言えよう。この点は、伊勢湾周辺の地図を南北さかさまにして眺めると、実感できるであろう。古代においても、こうした交流が成立していた可能性を暗示するのが、尾張氏関連の氏族や地名の広範な存在である。また、律令時代に志摩国から「耽羅鰒」(耽羅は、済州島である)が都に献上されていることも無視できない。近世の尾州廻船の活躍ぶりも、高校教科書に採り上げられるようになった。大黒屋光太夫をはじめ、音吉・重吉の物語など、語るべきことは多い。
 第1の問題は、第2の問題と相対的に区別はされるが、密接な関連をもって成り立っている。例えば近世尾州廻船の一部をなす野間船は、野間に適当な港がないために、沖合に停泊し、必要な場合には伊勢の白子に入港した。白子を含む若松御厨は著名な伊勢神宮領だが、対岸の知多郡野間には若松の地名があるのも故なしとしないであろう。中世以来の水軍を中心とした伊勢湾内の多様な結び付きも解明されてきたし、熊野との関係も注目されつつある。海をめぐる信仰や生活の在り方もふくめて、多様な「伊勢湾の文化」が、作り出されているのである。

伊勢湾の流れと水質・生態系の仕組み
−貧酸素水塊や赤潮の発生と消滅機構−

藤原建紀(京都大学大学院農学研究科助教授)

 伊勢湾と東京湾・大阪湾は,ほぼ同じ大きさの内湾である.いずれの内湾の奥部にも大きな河川と大都市がある.大阪湾・東京湾については,多くの科学的な調査・研究が古くから行われてきたのに対し,伊勢湾の研究は近年まで,ごくとぼしいものであった.しかしながら,この数年の集中的な調査により,伊勢湾のなかで何が起きているのか,手に取るように分かってきた.これの原因は,新しい調査機器・調査技法によって,いままで知ることのできなかった情報を得ることができるようになったことである.その例としては,船舶に取り付けて航行しながら,水深50cmごとの詳細な流速鉛直分布をリアルタイムで計測できるADCP(超音波ドップラー流速プロファイラー)や,電波によって海域全体の表面流速を遠隔計測できる海洋短波レーダーなどがある.
 このような新しい機器を用いることにより,現在では,伊勢湾は,大阪湾・東京湾よりもよく分かった内湾となった.伊勢湾の流れがどのようになっていて,流れによって窒素・リンなどの物質や浮遊性生物(プランクトン)がどのように運ばれていて,それによって水質や酸素濃度がどのように変化するのか,また外洋の変動が湾内にどのような影響を及ぼしているのか,かなりの精度で分かるようになってきた.従来,複雑で理解困難とおもわれていた内湾の現象も,空間的に(特に鉛直的に)詳細なデータを得ることによって,意外にシンプルな原理で成り立っていることが分かってきた.
 伊勢湾の基本的な流れは,エスチュアリー循環流である.伊勢湾の奥部には,木曽三川から大量の河川水が流入している.河川水は湾内上層をとおって湾口に向かって広がっていく.この過程で,上層水は下層水を取込み,次第に高塩分となっていく.この取込を補う形で,下層には湾奥に向かう流れができる.下層で流入し,上昇して上層から流出する形の鉛直循環流が,エスチュアリー循環流である.この循環流は,淡水が流入する内湾では一般的にみられ,大阪湾・東京湾でも卓越的な流れである.エスチュアリー循環流は,栄養塩やプランクトンのみならず,溶存酸素も運び,貧酸水塊の消長も支配している.エスチュアリー循環流自体は古くから知られた流れであるが,伊勢湾・大阪湾規模の内湾では,地球自転の影響を強く受けて,特異な流れとなっていることが分かってきた.

生物資源の永続的利用と伊勢湾の環境

鈴木輝明(愛知県水産試験場主任研究員)

 三河湾を含む伊勢湾では周年、多種多様な漁業が操業されており、主たるものは浮魚を対象としたパッチ網・巻き網と、底性魚介類を対象とする小型底曳網である。愛知県の漁獲統計では引き回し船曳網は兵庫、岩手につぎ第3位、小型底曳網は北海道に次ぎ、第2位の漁獲量を挙げ、底曳の主たる漁獲物でもあるアサリは全国1位の生産をあげている。この水産生物、特に底生性生物の豊かさは、大河川の流入と、それにより形成された干潟や藻場を含む浅場の存在といった地形的特徴と、それに起因する特徴的な栄養物質の循環に深く関連している。
 話題提供では、この浅場が漁場価値以外に、湾の水質を適正に維持するためにも重要であり、伊勢湾周辺の生物資源を永続的に利用するために必須な場であることに言及したい。
 干潟・藻場を含む浅場は水中の有機懸濁物をろ過摂食する二枚貝類や、堆積した有機物を摂食する多毛類のような大型底生生物が多いことが特徴である。大型底生生物は水中と底泥との間の物質循環の速度を高め、水質を含む内湾全体の浮遊生態系の構造に大きな影響を与えていることが近年報告され、その一部過程は水質浄化機能として評価されている。従って程度の差はあれども埋め立て等による底生生物群集の喪失は湾全体の水中懸濁物質の増加や底泥のヘドロ化を助長するであろう。三河湾における赤潮や貧酸素水塊の1970年代からの急速な拡大は大規模な埋め立てによる浅場の喪失と時期的に符合することから底生生物群集の喪失に伴うこのような水質・底質の悪化現象と見ることもできる。
 さらに重要な問題は貧酸素水塊の発生が引き金となる”負の連鎖”の開始である。近年の貧酸素水塊の規模は残存している浅場にまで影響が及ぶ水準であり、残存している浅場の豊かな底生生物群集の著しい衰退をもたらし、その結果、底泥と水中との物質収支がさらに大きく変化し,流入負荷と併せて水質環境の悪化や内湾生態系の変化を加速する可能性が否定できないことである。このことについての観測例や底生生態系を模擬した数値モデルを利用した解析例を紹介し、伊勢湾の再生のための環境管理のあり方や人工干潟、藻場の造成による生物的環境修復の積極的な推進の必要性について私見を述べてみたい。
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